臨済宗 妙心寺派
岐阜市の永代供養と供養墓は臨済宗 妙心寺派 開善院へ

金寶山 開善院
臨済宗 妙心寺派
岐阜市 臨済宗 妙心寺派 開善院
開善院の由緒・由来
開善院は応仁2年(1462年)戦国下剋上の先駆けとなった美濃守護代齋藤妙椿が自らの菩提寺として
建立した岐阜市の臨済宗妙心寺派の寺です。
開山は悟渓宗頓です。又、妙椿は悟渓宗頓の求めに応じて、守護土岐成頼の為に瑞龍寺を建立しました。
妙椿没後に悟渓八哲の大猷慈済(興宗)が開基となりました。以来19代560余年法灯を守ってきました。
ご本尊は本山妙心寺より拝領の満米上人造の延命願王地蔵菩薩です。又、妙心寺14代管長 霧隠軒川嶋昭隠が得度修業した寺です。
近代の歴代住職のご紹介

17代住職 元光

18代住職 敏光

19代住職 良光
《行事のご案内 》
大般若会
臨済忌
斎藤妙椿忌
春彼岸法要
開基大猷忌
施餓鬼会法要
秋彼岸法要
1月 3日
1月15日
2月21日
3月21日
6月21日
7月 9日
開山悟渓忌
9月20日
10月 5日
だるま忌
11月 5日

岐阜市 永代供養 供養墓
岐阜の名僧 川嶋昭隠
川嶋昭隠は1865年岐阜市正木の生まれ。11歳で開善院の則門和尚について得度しました。16歳で美濃伊深 正眼寺に掛塔。1891年の濃尾地震の時は倒壊した開善院に駆けつけ、則門和尚の居室を建造しております。その後各地で勉学に励み、42歳で京都 大徳寺の師家となりました。茶道 表千家12代家元 惺斎の参禅の師となり、表千家と深く繋がりました。又、近衛文麿、前田利為、細川護立も参禅し、名声は高く関西、東京へも赴いています。
52歳 で正眼寺住職、1924年本山妙心寺14代管長となりますが、60歳で志半ばで遷化しました。禅僧としての高い精神性が反映された書画を多く残し岐阜を代表する名僧の一人です。

川嶋昭隠画像
岐阜市 供養墓 永代供養
応仁の乱のキーパーソン 斎藤妙椿
斎藤妙椿は美濃守護代斎藤宗円の次男として応永8年(1411年)に生まれましたが、幼くして出家、僧となりました。兄利永の死後、守護土岐成頼を支えつつ実質的には主家を凌ぐ権力を握り戦国下剋上の先駆けとなった人物です。又、室町幕府奉公衆でもありました。
応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発すると西軍の【実質的な最強の柱】として京都と地方で圧倒的な存在感を示し、美濃、尾張、伊勢三国を支配しました。「東軍・西軍の勝敗は妙椿の働き次第で決まる」と、奈良・興福寺 大乗院寺社雑事記に書かれるほどでした。乱の後、将軍候補の足利義視親子を美濃に招き手厚く保護しました。
文化面でも戦乱荒廃した京から、一条兼良、連歌師専順、宗祇らを招き革手城で連歌会を開いています。文化人が集まることで、革手の町が小京都として発展し、地方随一の文化発信地となりました。妙椿も和歌に精通していましたので、郡上篠脇城を占領したところ、城主東常縁が和歌十首に切なる願いを託して妙椿に送り、妙椿からも返歌とともに領地返還をした話は有名です。文武に優れ、京とも強い繋がりを持ち美濃を発展させましたが、文明2年(1480年)に70歳で亡くなりました。
妙椿亡き後、ほどなくして、息子妙純と孫が共に戦死してしまい、土岐、斎藤の長い同族争いへと突入しました。混乱に乗じて長井新左衛門尉(斉藤道三)が、藤原氏にルーツを持ち、美濃の名家である齋藤家を奪い取られてしまいました。
現在は妙椿、妙純までを【前斎藤】と区別しています。


岐阜市重要文化財
紙本著色斎藤妙椿像

岐阜市 永代供養 供養墓
ご供養・お墓
当院では、故人を偲びご供養する葬儀、法要を心を込めて執り行っております。また、墓地や永代供養墓もございます。


お墓は90cm×90cmからありますので、
ご相談ください。

山里霊廟(永代供養墓)
山里霊廟(永代供養墓)
お墓は複数の世代に受け継がれる家族の供養塔。大切な故人のお墓を開善院が長きに渡って管理・供養いたします。宗旨は問わず、生前のお申し込みも可能です。
年1回の供養会を行っております。
「後継者がいなくても安心して供養を続けたい」
そんなお声に応えるのが、開善院の永代供養です。合祀・個別のいずれも、寺が責任を持って供養・管理します。
お問い合わせはこちら
TEL.058-246-1838
よくある質問
岐阜市 臨済宗 妙心寺派 開善院
アクセス
臨済宗 妙心寺派
金寶山
開善院
〒500-8118 岐阜県岐阜市寺町19
TEL.058-246-1838
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◇岐阜市コミュニティバス「殿町3丁目・金園町4丁目」停留所から徒歩1分
◇岐阜バス竜田町停留所から徒歩3分
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開善院門前に駐車スペースがございます。
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